失敗だらけ

大学入学前に恐れていたことがあった。私が知的誠実さを保つことをだらしなくもやめ、知性を衰えさせてしまうのではないかと。悲劇的なことにその通りになった。入学当初は新たな知識を得る機会が多かったので、粗悪なインプットの量に圧倒され、知的誠実さという知の質を担保する態度を徐々に喪失していることに気がつかなかったのかもしれない。いや、気がついていたように思う。下らない言い訳を考える能力だけは維持しているようだ。この一言で通り過ぎてはいけない。私は言い訳を考える能力が非常に高い。十三歳から重要な局面の九割で失敗しているが、わたしはその度に言い訳を組み立て、失敗を正当化した。最近は失敗を正当化することを正当化することにほとんど違和感を感じず、むしろそれは素晴らしいことであると考えるにまで至っている。ほとんど失敗のない人生を歩んでいるつもりになっている。今ちょうどこの瞬間まで、そういった心境であった。改めて捉え直すと、失敗ばかりである。こうタイピングしているこの瞬間も実際のところそうは思えていない。失敗だらけであることを正当化する癖があるという問題提起はできているが、真剣さがない、この執筆を終えるとすぐに問題ではなくなっていそうだ。しかしこれは私の人生を蝕む病なのであって、目をそらさずに捉えなければならない。捉える。そして闘争し、治療しなければいけない。

一・二年生の頃は頻繁に、日を追うごとに愚かになる自分について留意していた。留意していただけで、何も対策は打っていなかった。その無対策が結果として自身の愚化を招き、日頃愚かになっていく自分を顧みることも少なくなった。思考の表層にこそ自身の愚化というテーマは立ち上るが感情の動きを伴っていない。以前はそれなりの強度の後悔という感情を伴っていた。思考に伴う感情に(もしくは「が」)鈍化するのは体感的には楽だが、やはりその種の感情が日常に彩りを添えていたようにも思える。私の日常は知的な彩りを欠く。今の思考はもはやほとんど常識に迎合するばかりである。大衆や体制の論理がなぜそうした常識を採用したのか、という問いの回答ついて、一部分を知り、また、体感した(ように思われる)。大衆や体制の論理は強固な理由があり崩し難いもので、全般的に妥協に満ちており、文字面では高尚に思われる理想とはかけ離れていても仕方のないものと思っている。一部分についてはそういう実情があるということを学んだが、その一部分で起きた現象が全体に敷衍できると思っている。思っているにすぎないが。おそらく実際はできないのではないか?と反証の可能性については思考が及ぶ。しかしその一部分で起きた現象についても何かしら抽象性のあることがらを立証するようなことはしていないので、反証もありようがないのである。つまりいつかどこかで学んだうろ覚えの知識をもとにした印象論を振り回しているだけで、全体に敷衍できる何らかの結論をもとに判断しているわけではないのに、そういったことをしているように勘違いしているのである。というか、全体に敷衍できる何らかの原則がある、という考えこそ素人考えである。無知な人間は「全てを分析可能な原則や論理がある」という例に挙げられるような極端な思考へと及ぶ、これこそは様々な局面で立証されていることだ。しかしそういった素人考えをしている無知な人間そのものに自身がなっていることについての恥がないのだ。ほんの少ししかない。昔ならこの状態になってしまっていることに真剣に心を痛めたであろう。今はほとんど無感動だ。いま、この文章を書くという行為を通してこの無感動を破りたい。なぜこの恐るべき俗物と成り果てた自分にそこまでのうのうとしていられるのか。なぜ将来の恐ろしさを感じ取れないのか。隅々まで感受性が鈍化した人間の末路はこうである。悲劇的である。どうして感情が揺り動かせないのか。キーボードを叩く手を強めてはいるが、この程度の運動の変更が思考に影響を及ぼすわけもないか。ともかく、なぜ自分は己の愚かさを責めることをほとんど忘れてしまったのか。いま、すこし感情が動いてきた感じがある。しかしまだまだである、記憶は美化されているかもしれないが、自身がかつて感じた己の愚かさについての苦悩に比べるとまだ大したことはない。記憶が美化されているかもしれないという留保は何か。こういった部分が隙なのか。過去は美化される傾向がある、これは事実だろう。この事実の使うタイミングに恣意性があるのだ。自身のだらしなさを乗り越えることができない自分がいつまでも存在している、とまで考えたところでしかしそのような自分は永遠に消えることはないと瞬時に考えついた、確かにこれも事実であろうが、事実を繰り出すタイミングにやはり恣意性があるのだ。長く生きるということは文字情報以外にも体感的に事実や真理を感じ取り蓄積していくということである。自分の不都合な部分、今回は己の愚かさについて見逃そうとする自分の動き方、これが問題であり、様々な糾弾方法があるにも関わらず、リテラルでない、論理的でない体感的事実や真理を自分に都合のいいタイミングで繰り出すようになってしまう。これが鈍化であり、大人になるということなのかもしれない。悪い意味で、である。再び感情が鈍化してきた。疲労かもしれない。自分はこう愚かなままでもいいのだろうか。なぜ愚かなままの自分に何も思わない人間になってしまったのだろうか。なぜ以前あれほど嫌っていた大衆に迎合する行為を喜び勇んでやるようになったのだろうか(筆記後注: 喜び勇んで、というよりは必要に迫られて。必要に迫られていることと喜び勇んでいることの区分が曖昧になっている。これは大きな問題)。いや、確かに大衆に迎合することには幾らかの意味がある、しかし幾らかの意味ぐらいしかないのであってそのかわりに失ってしまうものついて自覚的であること、そしてその損失を意識的に補完できる人格を創造(筆記後注: のまえに想像)していくことが最終的な目的になるはずだ。しかしこのように幾らかの意味を認めることで自分のだらしなさはその幾らかの意味を一般化してしまう、何にでも当てはめてしまうのである。ここが自分の弱さであり誤解であり無知である。ここが隙だ。自分が理性的存在であることをもう半ば諦めてしまっている節がある。でも私はまだ諦めないつもりでいる。つもりではない。諦めない。諦めないとタイピングしていても自身が心の底からそう思っていないのでは意味がない。諦めないことによって得られるものは何か。毎日に彩りが取り戻されるのだ。最近の自分の世界は非常にのっぺりとしていて薄められた快楽と不愉快さに包まれた下らない大衆的なつまらない世界である。私は大衆をバカにしているのではなく、大衆の価値もまた認めざるを得ないのであるが、そこに安住してはどうしてもいけないという選民的な意識があるのだろう。申し訳ないが、そんな選民意識を私は持っている。そこを焚きつける方向性で自身は奮起できるであろうか。知識人はそのような選民意識が見失う場所にこそ新たな知の地平があるとみられるが、私は知識人ではないからまずはその選民意識で駆動するべきか。にしてはもう時間がない。社会においてもその選民意識をあらわにするということは人望の損失に決定的な一手となる。それを感じさせずにそれを維持すること。それが重要かもしれない。いや、重要ではないか。でも違うか、自身はもうそういった選ばれた人間にはなれないという諦念があるんだ。諦めないのではなかったか。いつまでも諦める必要はない。必要があろうがなかろうが関係ない。わたしは諦めないのだ。しかしその諦念を持っていないとそろそろ痛々しい人間になってしまうのではないか。いや、もうすでに痛々しい人間なのであるから、もうそれでいいのではないだろうか。むしろそうなれるのであればなってみろという話である。いや、すでにその選民意識の腐臭は辺りに漂っている。不誠実な形で選民意識があるのだ。むしろその意識に誠実な形で向き合うことが大切なことではなかろうか。実際、受験勉強はそこそこ頑張ったのである。私としては大変真摯に、いや真摯ではないか、どうしても自分に甘い。勉強が不得意な部分もある。それはそうだった。実際に周囲との素地の力の差には愕然としたが、それでもそれなりには勉学に身を捧げて来たつもりである。こういうと自身の過去が思い浮かび、この程度で勉強に身を捧げたなどとほざくなと言いたくなるところで、私自身も捧げたという言葉がふさわしいほどには勉学に励んでいないのかもしれないが、かもしれないというよりはいないのだが、それでもこの意識を持つには足るはずだ。

ほとんど自動記述であるため、ここまでで一度休憩をして、誤字脱字を修正した。

確かに私は勉強不足だ。自分の素地が如何の斯うのいう前にひたむきに努力を重ねるべきだ。もちろんたどり着けるところには限界があって同年代の自分より優れた人間たちをみて嫉妬と羨望の綯交ぜになった感情を持つだろう。しかしそれはどうしようもない事実なので自分は自分で行けるところにまでひたむきに努力するほかない。この簡単な結論をいとも簡単に私は忘れてしまう。それは自分に甘いからなのだ。どうして自分に甘いのか。自分に甘くてもまあまあの結果が得られると思っているからであろう。いつまでもどのようなタイミングにおいても自分に厳しくあれるはずがない、人間は、などと私は考えるのだが、それにしたってわたしは自分に甘いところが多すぎる。明らかに甘やかしている一定期間があるのではなく、普段の思考の要所要所に甘さが紛れ込む、これがよくないのだ。自分に甘くてもまあまあの結果が得られる、などと考えているが、それは誤解で、実際私の人生は失敗だらけである。実際、私の人生は失敗だらけなのだ。解釈の余地はある。しかし現行の解釈をうち捨てるべきなのだ。これは失敗だらけだ。かといって完全に立ち直れないレベルの絶望的状況にあるわけではない。環境も進路も絶望的ではない、ただ今、もっとも絶望的なのは自身の内面なのだ。自身に甘すぎるが故に自分の失敗をそのまま受け止めることなく、また、典型的な俗物になっているのにそれを良しとしている点である。こればかりはどうか、どうか治さなければならない。