「財布」

短編

 

友人とサイゼで飯を食っていた。友人の隣席に腰かけていた男の人がおそらくトイレに立った。財布はソファに置いたままだ。少し不用心だと直感したが、だからどうということもなく、その直感がすぐなかったことになってしまいそうなその時、友人がその財布を素早い手つきで着ていたフードのポケットにしまい込んだ。行動の重大さとは裏腹に、その動作自体は日常的な雰囲気があって、只あくびを目撃したのと同じ印象だったので、行動そのものの重大さをまずは私の中に喚起することに時間がかかってしまった。

「ちょっと」

「なんだよ」

「やめなって」

「なんで?」

「いや、普通にダメだろ、犯罪だよ」

「まあ」

「まあじゃないって」

やや語気が強まった。

「戻しなよ、人が戻ってくる前に」

「やだよ」

「なにしてるのかわかってんのかよ」

「まあ」

沈黙が流れた。

案外すぐに隣の人が戻ってきた。盗まれたことには気づいていない。

被害者が戻り、なぜか私も露骨な追及をするのをためらい始めた。

「犯罪だって」

会話のトーンが下がる。店内の喧騒に紛れようとする。

「犯罪してない人なんているの?」

やや答えに窮する。

「犯罪はみんなしてるでしょ」正当化する意思すら語気には感じられない。

「だからといって、やっていいことと悪いことがある」

「犯罪にやっていいこと悪いことも何もない」

「なあどうしたんだよ、何があったんだ」

「別に」

「金がないのか」

言いながら被害者のほうをちらと見る。とくに気づいてはいないようだ。私のほうが緊張しているだろう。

「いや。金に困っているとかそういうことはない」

「じゃあなんで」

「理由はない」友人はかぶせ気味に続けて話した。

「特に何か考えがあってやってるんじゃないから、なんとなくだよ」

「でもやめろよ、なんでもいいから戻せって」

「やだよ」

どう考えても友人がおかしいのだが、私も不思議と追及する気が失せてきた。

そうか、なんとなくか。人はみな、いいや、少なくとも私と友人は、なんとなくで法を犯した経験がある。その経験が全くないという人のほうが少ないのではいかとすら思う。

 

 

「もう出ようぜ」友人が言う。二人のパスタは食べかけだ。

「今戻したほうが大変なことになるぞ」念を押すように友人は言った。

それもそうかもしれないと私は思う。突然話すのが面倒になってきた。財布の中身に自分の分け前があればいいかぐらいのことを考えた。

私はまた男を見る。まだ気づいていないようだ。

もう逃げたかった。

 

レジに二人で立つ。

「お前奢れよな」

「わかったよ」友人が自身の財布で支払う。

 

 

店を出て商店街を歩く。冬の空は冷えている。

「幾らかくれよ」そう言おうかと思い付いたその刹那、サイゼリヤには監視カメラのついていることを思い出した。友人がポケットから盗んだ財布を取り出した。外で見る見慣れぬ、しかし使い込まれた財布は突如して盗品の様相を帯びた。

 

しまった、と思った。