慰めへの誘導尋問

もうどこへ行っても何も成功しないと思う。

私はこのように思うが、同時にこの発想が「そんなことないよ」と否定されることを待ち望んでいる。しかし否定されることで自信を取り戻すことがこの発想の目的ではない。私は、実際にそのように思っているが、同時に否定されることをも望んでいる。

私は多少ゲスいため優しい言葉を待ち望んでいるが、ゲスくない真剣な人が他人からの優しい言葉を一切必要とせず「もう何も成功しない」と真摯に本気で反省していたとしたらどうか。ゲスな感情の有無とは無関係に、周りの親切な人は「そんなことないよ」と口走るだろう。その親切な人が多少辛辣なら「こいつ慰めの言葉を待っていやがるな」と思うだろうし、親切な人が純粋に心配していても真摯に本気で反省していた人が繊細だったら「本気で反省していたのに他人に慰めの誘導尋問をしてしまった、なんと不誠実なんだ」とショックを受けるだろう。

つまり悩みの表出には慰めへの誘導が社会的に含まれていると思う。悩みを言葉にすることそれ自体には誘導は含まれていなそうだけれど社会的には多分に含まれている。

ゲスな人はいくらかわかっていてそれをするけれども、誠実な人は可哀そうだ。

悩みは社会的に建設的前進が延期されているともいえる。もちろん慰めが建設的前進の契機になることもありえるが、基本は消極的前進もしくは後退だ。

 

20181129追記

誘導尋問であっても、慰めの真摯さがその誘導したことの嫌悪感を打ち砕く強さを持っていれば、悩みの相談に付随する構造上の問題を叩き壊す力強さがあれば、それが本当の慰めになる。