結婚についての日記

ゼクシィのキャッチコピーを友人が褒めていた。

「結婚しなくても幸せになれるこの時代に、私は、あなたと結婚したいのです」

例によって無神経な私はどうとも思っていなかったが後輩によれば

男女平等が主に女性の男性化というかたちで進められる世界においては結婚ばかりが女性の幸せではなくなった。それはつまり結婚以外の幸せが女性に発明されたということでありむしろ結婚の不幸さが際立ってきたということだ、そんな時代に言うは易しな「結婚の不幸」を乗り越えあえて結婚を選びたい、という意味があると。

コンサルに行く女友達が「どこの一般職?」と聞いてきた男に立腹していたが、そして、その場にいた私を含めた彼女の友達全員が当然のように立腹していたのだが、このような立腹が存在する世界で結婚はますます不幸さを際立たせている。

例によって無神経な私は結婚だけが女の幸せだった昔の方が幸せになれた女の人もいくらかいるんだろうなどと女性の幸せについて他人事のようにその時は考えていたが、その後、そのような状態へ置かれてしまった女性と結婚する我々男も結婚についてより一層の深慮を求められる時代となったのだとようやく自身の問題として考えるようになった。

というのは、結婚しない幸せをこれでもかと女性に強調されている時代に女性に結婚を申し込むことは、従来ならば結婚する幸せだけを提示していればよかったものを、結婚しない幸せを手放してください、わたしがその幸せを埋め合わせられる保証はありませんが、という部分もセットで相手に宣告することだからだ。その幸せは絶対に埋め合わせましょうこの僕が、そのつもりで私は頑張りますなどと言うのはロマンティックでプロポーズのセリフには向いているかもしれないが、幸せは計量に難儀するのでそれはほとんど嘘だろう。

現行の社会システムでは一度女性が家庭に入ってしまうと出世という意味での自己実現は非常に限定される。そこで子育てが女性にとって最高の自己実現だと価値観をすり替えるのはいいが、これが価値観のすり替えだとか、出世という意味での自己実現を男性の独占から解放しようだとか、そういった言説が際立っているので、こういった状況で女性を娶るというのは現代においては女性に人生を捨てろと宣告するようなものである。

この問題に対するラジカルな応答としては生殖をやめようという発想だ。子供を産むことが性別にまつわる問題の元凶であり(恐らく正しい)、というかそろそろ人間という種も先進国の経済よろしく緩やかになっていこうよという壮大な設定がある。グローバルなコスモポリタンはそれで成立するのかもしれないが自身のアイデンティティに国と伝統を欲する人たちにはそれができない。国が終わってしまうと考える。とくにこの日本は簡単に終わってしまう。

私は馬鹿なのでグローバルなコスモポリタンにはなれそうもなく、偶然生まれおちそしてお世話になったこの国の未来までの繁栄を願い、伝統が維持されることを願い、理性的な未来を信じずに生殖という愚かな、人類にとって悪影響でしかないのかもしれない選択をするだろう。

どうすれば女性の幸せに責任が取れるのだろうか。

私は責任を取りきれないと思いながら結婚する。