2015年9月22日の夢

オリジナル映画の夢を見た これが中々面白く(夢を自画自賛=自己の内面を面白いと思ってるナルシズム)て(といっても、もうほとんど覚えてないんだけれど)恐らく見たのは二回目。 セーラームーンのキャラはもちろん、後半は松本人志がキーキャラクターとして出演する。私も出演しているのだが第一部(前半)に発狂して死ぬ。何故松本人志であるかは謎。第一部と第二部では舞台設定が同一だが別の世界線であり、第一部の主人公的な人物が私で、第二部の主人公的な人物が松本人志だった。第一部と第二部でそれぞれ完結するので、私と松本人志はシナリオ上では接点が無い(もちろんこのブログというレベルの現実にも無い)。セーラームーンはアニメーションで私や松本は実写。それに何の違和感も持たずに会話をしていた。

 

 

俗世間から何らかの理由で乖離し、いわゆる「二次元」の文化(絵画漫画アニメゲーム等)の世界に閉じ込められた私と松本。その二次元の世界ではあらゆる漫画アニメゲームの名シーンが追体験出来る。

例えば美術史上に残る絵画に入り込んだり、漫画の猛烈にアツいシーンやFFの感動的なシーンを無限に追体験出来るこの二次元世界であれば、別に現実世界に戻れなくたって人間の一生分の悲喜こもごものドラマ、喜怒哀楽が過ごせるではないか… 二次元世界からの脱出を諦めてもいいのではないか…という思いが頭をもたげる私と松本。面白いのは、例えばFFの世界を追体験しているときには自分や松本もFFの衣装に身を包んでおり、ドカベンの世界観に居るときには野球のユニフォームを着たりして、完全にその世界に馴染むこと。FFの世界観で白いローブに身を包む松本人志というのは、視覚的にも単純に面白かった。


第一部と第二部では舞台設定が同一だが別の世界線であり、主人公っぽい私と松本の行動が大きく異なる。 第一部で現実世界への脱出を諦めた、積極的な意味で諦めた(つまり、二次元の作品を追体験出来るんだったら現実世界に戻らなくたっていい、この二次元世界はふて腐れて生きる感動を失った現実世界に比べたら悪くない、むしろ良いぐらいじゃないか!と思い立った)私は発狂してなんか血だらけになって死んだ気がする。

第二部では一時期脱出を私同様諦めかけた松本人志であったがセーラームーンに説得され脱出を決意、まだまだ味わい尽くしていない二次元世界の名シーンたちと涙ながらの決別を行い、セーラー戦士たちと夜の東京に脱出した。

第二部のラストシーン、東京の夜空に飛び込むようにして脱出したセーラー戦士松本人志の背中のカットで、突然ナレーションが入る。「我思う故に我あり」というデカルトのことばをアリストテレスの思想を引用しつつもじった、新たなフレーズを言い残して第二部は終了。ここが大事なのに全然思い出せない。「自分がないと思うものはない」みたいななんかそういう感じだった気がする。

そこから場面は変わり、現実世界で平然と生きている私が登場。松本による東京への脱出までを描いた映画を見終えた私はどことなく釈然としなかったラストシーンについて、普通にフードコートでポテトを食べていた木野まことに「あの終わり方はどんな意味だったんだと思う?」と訊く 。彼女は何かを答えたが、よく聞き取れない。そこで映画は終わる。

 

起床後2時間以上が経過した私はもうほとんどディテイルを覚えていないのだけれど、ルネッサンス期の宗教画みたいな絵に入り込んだ際に水野亜美が意味ありげにつぶやいた

 

「消失点はね、視覚上は消失してても、実際には向こうに続いてるんだよ。こんな風に」

 

という深いのか深くないのか、当然だろという感想も持たないでもない発言だけが僕の頭に残っています。

 

 

(ちなみに、FFシリーズはやったことがないし、セーラームーンシリーズに至っては一度も見たことがない)