勁い心 (archive)

 物事を美化しないこと。これが案外難しい。世の中の様々な事柄は、美化してしまった方が収まりが良いから、幾多もの言葉を駆使して、あれこれ手を尽くして、美しくないものや、なんともないものを美しくしようとする。

 たとえば、何かしらの勝負に敗れること。 どうしたって負けてしまえばそれは美しくないのだが、散り際に美しさがあると言い出したりとか、その結果に至る過程の美しさで持ってして負けも美しく見せようとしたりだとか、そういうことをしだす人がいる。
負けることが美しく見えるのは、「負けを認める潔さ」ただその一点にのみ美しさが認められるからだ、と谷崎潤一郎は云う。 その潔さを除いては、負けることについて美しいことなど何も無い。辛いことだが、敗北を喫したのならば、幻覚の美しさに酔う前に、痛烈な美しくなさを受け入れ、次へ活かした方が良い方向へ進めるのだ。

 これは一つの具体例に過ぎない。
 世の中には美しいものも沢山あるけれど、それ以上に美しくないものは多い。 この世は何だか生き難いし、いくら真面目にやってようと、思い通りにいかないことだって多い。世知辛いものである。

 分かっている。美しくないものは見ていたくない。なんともないものは見ていてつまらない。それは誰もが頷くところであろう。しかし、美しくないものは、美しくないものとして、なんともないものは、なんともないものとして見なければならないのだ。美しいものだけを美しいと認め、自らの感性の純度を保たなければ、自らの世界は崩壊する。美しくないものを美しいものとしようとしているうちに、本当に美しいものを感知するセンサーが麻痺する。そうなってしまえば、一巻の終わりである。

 そうは言っても、色々と美化した方が人生は楽だ。何事も収まりの良さを重視して、するすると切り抜けていこうと思えば、色々な物事を美化した方が話が早い。ひょっとすると、そうした方が気軽に人生を過ごせるのかもしれない。

 しかし私は美しさを知りたい。美しいものを美しいものとして捉えたい。美しくないものを、何としてでも美しくないものと認め、自らの感性の純度を保つ。幻想の美しさという誘惑に負けない、楽して得られる甘い毒に溺れない、そんな、勁い心を持ちたい。

 

(書いた時期はよく思い出せない。PCに保存されていたのを発見し、なんとなく読んでみたら、若々しくて面白かったので公開)