失敗だらけ

大学入学前に恐れていたことがあった。私が知的誠実さを保つことをだらしなくもやめ、知性を衰えさせてしまうのではないかと。悲劇的なことにその通りになった。入学当初は新たな知識を得る機会が多かったので、粗悪なインプットの量に圧倒され、知的誠実さという知の質を担保する態度を徐々に喪失していることに気がつかなかったのかもしれない。いや、気がついていたように思う。下らない言い訳を考える能力だけは維持しているようだ。この一言で通り過ぎてはいけない。私は言い訳を考える能力が非常に高い。十三歳から重要な局面の九割で失敗しているが、わたしはその度に言い訳を組み立て、失敗を正当化した。最近は失敗を正当化することを正当化することにほとんど違和感を感じず、むしろそれは素晴らしいことであると考えるにまで至っている。ほとんど失敗のない人生を歩んでいるつもりになっている。今ちょうどこの瞬間まで、そういった心境であった。改めて捉え直すと、失敗ばかりである。こうタイピングしているこの瞬間も実際のところそうは思えていない。失敗だらけであることを正当化する癖があるという問題提起はできているが、真剣さがない、この執筆を終えるとすぐに問題ではなくなっていそうだ。しかしこれは私の人生を蝕む病なのであって、目をそらさずに捉えなければならない。捉える。そして闘争し、治療しなければいけない。

一・二年生の頃は頻繁に、日を追うごとに愚かになる自分について留意していた。留意していただけで、何も対策は打っていなかった。その無対策が結果として自身の愚化を招き、日頃愚かになっていく自分を顧みることも少なくなった。思考の表層にこそ自身の愚化というテーマは立ち上るが感情の動きを伴っていない。以前はそれなりの強度の後悔という感情を伴っていた。思考に伴う感情に(もしくは「が」)鈍化するのは体感的には楽だが、やはりその種の感情が日常に彩りを添えていたようにも思える。私の日常は知的な彩りを欠く。今の思考はもはやほとんど常識に迎合するばかりである。大衆や体制の論理がなぜそうした常識を採用したのか、という問いの回答ついて、一部分を知り、また、体感した(ように思われる)。大衆や体制の論理は強固な理由があり崩し難いもので、全般的に妥協に満ちており、文字面では高尚に思われる理想とはかけ離れていても仕方のないものと思っている。一部分についてはそういう実情があるということを学んだが、その一部分で起きた現象が全体に敷衍できると思っている。思っているにすぎないが。おそらく実際はできないのではないか?と反証の可能性については思考が及ぶ。しかしその一部分で起きた現象についても何かしら抽象性のあることがらを立証するようなことはしていないので、反証もありようがないのである。つまりいつかどこかで学んだうろ覚えの知識をもとにした印象論を振り回しているだけで、全体に敷衍できる何らかの結論をもとに判断しているわけではないのに、そういったことをしているように勘違いしているのである。というか、全体に敷衍できる何らかの原則がある、という考えこそ素人考えである。無知な人間は「全てを分析可能な原則や論理がある」という例に挙げられるような極端な思考へと及ぶ、これこそは様々な局面で立証されていることだ。しかしそういった素人考えをしている無知な人間そのものに自身がなっていることについての恥がないのだ。ほんの少ししかない。昔ならこの状態になってしまっていることに真剣に心を痛めたであろう。今はほとんど無感動だ。いま、この文章を書くという行為を通してこの無感動を破りたい。なぜこの恐るべき俗物と成り果てた自分にそこまでのうのうとしていられるのか。なぜ将来の恐ろしさを感じ取れないのか。隅々まで感受性が鈍化した人間の末路はこうである。悲劇的である。どうして感情が揺り動かせないのか。キーボードを叩く手を強めてはいるが、この程度の運動の変更が思考に影響を及ぼすわけもないか。ともかく、なぜ自分は己の愚かさを責めることをほとんど忘れてしまったのか。いま、すこし感情が動いてきた感じがある。しかしまだまだである、記憶は美化されているかもしれないが、自身がかつて感じた己の愚かさについての苦悩に比べるとまだ大したことはない。記憶が美化されているかもしれないという留保は何か。こういった部分が隙なのか。過去は美化される傾向がある、これは事実だろう。この事実の使うタイミングに恣意性があるのだ。自身のだらしなさを乗り越えることができない自分がいつまでも存在している、とまで考えたところでしかしそのような自分は永遠に消えることはないと瞬時に考えついた、確かにこれも事実であろうが、事実を繰り出すタイミングにやはり恣意性があるのだ。長く生きるということは文字情報以外にも体感的に事実や真理を感じ取り蓄積していくということである。自分の不都合な部分、今回は己の愚かさについて見逃そうとする自分の動き方、これが問題であり、様々な糾弾方法があるにも関わらず、リテラルでない、論理的でない体感的事実や真理を自分に都合のいいタイミングで繰り出すようになってしまう。これが鈍化であり、大人になるということなのかもしれない。悪い意味で、である。再び感情が鈍化してきた。疲労かもしれない。自分はこう愚かなままでもいいのだろうか。なぜ愚かなままの自分に何も思わない人間になってしまったのだろうか。なぜ以前あれほど嫌っていた大衆に迎合する行為を喜び勇んでやるようになったのだろうか(筆記後注: 喜び勇んで、というよりは必要に迫られて。必要に迫られていることと喜び勇んでいることの区分が曖昧になっている。これは大きな問題)。いや、確かに大衆に迎合することには幾らかの意味がある、しかし幾らかの意味ぐらいしかないのであってそのかわりに失ってしまうものついて自覚的であること、そしてその損失を意識的に補完できる人格を創造(筆記後注: のまえに想像)していくことが最終的な目的になるはずだ。しかしこのように幾らかの意味を認めることで自分のだらしなさはその幾らかの意味を一般化してしまう、何にでも当てはめてしまうのである。ここが自分の弱さであり誤解であり無知である。ここが隙だ。自分が理性的存在であることをもう半ば諦めてしまっている節がある。でも私はまだ諦めないつもりでいる。つもりではない。諦めない。諦めないとタイピングしていても自身が心の底からそう思っていないのでは意味がない。諦めないことによって得られるものは何か。毎日に彩りが取り戻されるのだ。最近の自分の世界は非常にのっぺりとしていて薄められた快楽と不愉快さに包まれた下らない大衆的なつまらない世界である。私は大衆をバカにしているのではなく、大衆の価値もまた認めざるを得ないのであるが、そこに安住してはどうしてもいけないという選民的な意識があるのだろう。申し訳ないが、そんな選民意識を私は持っている。そこを焚きつける方向性で自身は奮起できるであろうか。知識人はそのような選民意識が見失う場所にこそ新たな知の地平があるとみられるが、私は知識人ではないからまずはその選民意識で駆動するべきか。にしてはもう時間がない。社会においてもその選民意識をあらわにするということは人望の損失に決定的な一手となる。それを感じさせずにそれを維持すること。それが重要かもしれない。いや、重要ではないか。でも違うか、自身はもうそういった選ばれた人間にはなれないという諦念があるんだ。諦めないのではなかったか。いつまでも諦める必要はない。必要があろうがなかろうが関係ない。わたしは諦めないのだ。しかしその諦念を持っていないとそろそろ痛々しい人間になってしまうのではないか。いや、もうすでに痛々しい人間なのであるから、もうそれでいいのではないだろうか。むしろそうなれるのであればなってみろという話である。いや、すでにその選民意識の腐臭は辺りに漂っている。不誠実な形で選民意識があるのだ。むしろその意識に誠実な形で向き合うことが大切なことではなかろうか。実際、受験勉強はそこそこ頑張ったのである。私としては大変真摯に、いや真摯ではないか、どうしても自分に甘い。勉強が不得意な部分もある。それはそうだった。実際に周囲との素地の力の差には愕然としたが、それでもそれなりには勉学に身を捧げて来たつもりである。こういうと自身の過去が思い浮かび、この程度で勉強に身を捧げたなどとほざくなと言いたくなるところで、私自身も捧げたという言葉がふさわしいほどには勉学に励んでいないのかもしれないが、かもしれないというよりはいないのだが、それでもこの意識を持つには足るはずだ。

ほとんど自動記述であるため、ここまでで一度休憩をして、誤字脱字を修正した。

確かに私は勉強不足だ。自分の素地が如何の斯うのいう前にひたむきに努力を重ねるべきだ。もちろんたどり着けるところには限界があって同年代の自分より優れた人間たちをみて嫉妬と羨望の綯交ぜになった感情を持つだろう。しかしそれはどうしようもない事実なので自分は自分で行けるところにまでひたむきに努力するほかない。この簡単な結論をいとも簡単に私は忘れてしまう。それは自分に甘いからなのだ。どうして自分に甘いのか。自分に甘くてもまあまあの結果が得られると思っているからであろう。いつまでもどのようなタイミングにおいても自分に厳しくあれるはずがない、人間は、などと私は考えるのだが、それにしたってわたしは自分に甘いところが多すぎる。明らかに甘やかしている一定期間があるのではなく、普段の思考の要所要所に甘さが紛れ込む、これがよくないのだ。自分に甘くてもまあまあの結果が得られる、などと考えているが、それは誤解で、実際私の人生は失敗だらけである。実際、私の人生は失敗だらけなのだ。解釈の余地はある。しかし現行の解釈をうち捨てるべきなのだ。これは失敗だらけだ。かといって完全に立ち直れないレベルの絶望的状況にあるわけではない。環境も進路も絶望的ではない、ただ今、もっとも絶望的なのは自身の内面なのだ。自身に甘すぎるが故に自分の失敗をそのまま受け止めることなく、また、典型的な俗物になっているのにそれを良しとしている点である。こればかりはどうか、どうか治さなければならない。

2015年9月22日の夢

オリジナル映画の夢を見た これが中々面白く(夢を自画自賛=自己の内面を面白いと思ってるナルシズム)て(といっても、もうほとんど覚えてないんだけれど)恐らく見たのは二回目。 セーラームーンのキャラはもちろん、後半は松本人志がキーキャラクターとして出演する。私も出演しているのだが第一部(前半)に発狂して死ぬ。何故松本人志であるかは謎。第一部と第二部では舞台設定が同一だが別の世界線であり、第一部の主人公的な人物が私で、第二部の主人公的な人物が松本人志だった。第一部と第二部でそれぞれ完結するので、私と松本人志はシナリオ上では接点が無い(もちろんこのブログというレベルの現実にも無い)。セーラームーンはアニメーションで私や松本は実写。それに何の違和感も持たずに会話をしていた。

 

 

俗世間から何らかの理由で乖離し、いわゆる「二次元」の文化(絵画漫画アニメゲーム等)の世界に閉じ込められた私と松本。その二次元の世界ではあらゆる漫画アニメゲームの名シーンが追体験出来る。

例えば美術史上に残る絵画に入り込んだり、漫画の猛烈にアツいシーンやFFの感動的なシーンを無限に追体験出来るこの二次元世界であれば、別に現実世界に戻れなくたって人間の一生分の悲喜こもごものドラマ、喜怒哀楽が過ごせるではないか… 二次元世界からの脱出を諦めてもいいのではないか…という思いが頭をもたげる私と松本。面白いのは、例えばFFの世界を追体験しているときには自分や松本もFFの衣装に身を包んでおり、ドカベンの世界観に居るときには野球のユニフォームを着たりして、完全にその世界に馴染むこと。FFの世界観で白いローブに身を包む松本人志というのは、視覚的にも単純に面白かった。


第一部と第二部では舞台設定が同一だが別の世界線であり、主人公っぽい私と松本の行動が大きく異なる。 第一部で現実世界への脱出を諦めた、積極的な意味で諦めた(つまり、二次元の作品を追体験出来るんだったら現実世界に戻らなくたっていい、この二次元世界はふて腐れて生きる感動を失った現実世界に比べたら悪くない、むしろ良いぐらいじゃないか!と思い立った)私は発狂してなんか血だらけになって死んだ気がする。

第二部では一時期脱出を私同様諦めかけた松本人志であったがセーラームーンに説得され脱出を決意、まだまだ味わい尽くしていない二次元世界の名シーンたちと涙ながらの決別を行い、セーラー戦士たちと夜の東京に脱出した。

第二部のラストシーン、東京の夜空に飛び込むようにして脱出したセーラー戦士松本人志の背中のカットで、突然ナレーションが入る。「我思う故に我あり」というデカルトのことばをアリストテレスの思想を引用しつつもじった、新たなフレーズを言い残して第二部は終了。ここが大事なのに全然思い出せない。「自分がないと思うものはない」みたいななんかそういう感じだった気がする。

そこから場面は変わり、現実世界で平然と生きている私が登場。松本による東京への脱出までを描いた映画を見終えた私はどことなく釈然としなかったラストシーンについて、普通にフードコートでポテトを食べていた木野まことに「あの終わり方はどんな意味だったんだと思う?」と訊く 。彼女は何かを答えたが、よく聞き取れない。そこで映画は終わる。

 

起床後2時間以上が経過した私はもうほとんどディテイルを覚えていないのだけれど、ルネッサンス期の宗教画みたいな絵に入り込んだ際に水野亜美が意味ありげにつぶやいた

 

「消失点はね、視覚上は消失してても、実際には向こうに続いてるんだよ。こんな風に」

 

という深いのか深くないのか、当然だろという感想も持たないでもない発言だけが僕の頭に残っています。

 

 

(ちなみに、FFシリーズはやったことがないし、セーラームーンシリーズに至っては一度も見たことがない)

勁い心 (archive)

 物事を美化しないこと。これが案外難しい。世の中の様々な事柄は、美化してしまった方が収まりが良いから、幾多もの言葉を駆使して、あれこれ手を尽くして、美しくないものや、なんともないものを美しくしようとする。

 たとえば、何かしらの勝負に敗れること。 どうしたって負けてしまえばそれは美しくないのだが、散り際に美しさがあると言い出したりとか、その結果に至る過程の美しさで持ってして負けも美しく見せようとしたりだとか、そういうことをしだす人がいる。
負けることが美しく見えるのは、「負けを認める潔さ」ただその一点にのみ美しさが認められるからだ、と谷崎潤一郎は云う。 その潔さを除いては、負けることについて美しいことなど何も無い。辛いことだが、敗北を喫したのならば、幻覚の美しさに酔う前に、痛烈な美しくなさを受け入れ、次へ活かした方が良い方向へ進めるのだ。

 これは一つの具体例に過ぎない。
 世の中には美しいものも沢山あるけれど、それ以上に美しくないものは多い。 この世は何だか生き難いし、いくら真面目にやってようと、思い通りにいかないことだって多い。世知辛いものである。

 分かっている。美しくないものは見ていたくない。なんともないものは見ていてつまらない。それは誰もが頷くところであろう。しかし、美しくないものは、美しくないものとして、なんともないものは、なんともないものとして見なければならないのだ。美しいものだけを美しいと認め、自らの感性の純度を保たなければ、自らの世界は崩壊する。美しくないものを美しいものとしようとしているうちに、本当に美しいものを感知するセンサーが麻痺する。そうなってしまえば、一巻の終わりである。

 そうは言っても、色々と美化した方が人生は楽だ。何事も収まりの良さを重視して、するすると切り抜けていこうと思えば、色々な物事を美化した方が話が早い。ひょっとすると、そうした方が気軽に人生を過ごせるのかもしれない。

 しかし私は美しさを知りたい。美しいものを美しいものとして捉えたい。美しくないものを、何としてでも美しくないものと認め、自らの感性の純度を保つ。幻想の美しさという誘惑に負けない、楽して得られる甘い毒に溺れない、そんな、勁い心を持ちたい。

 

(書いた時期はよく思い出せない。PCに保存されていたのを発見し、なんとなく読んでみたら、若々しくて面白かったので公開)

i-D Magazine: Thu 30 October 2014 "a-z of slang" 訳

i-Dはここ最近面白い動画をアップロードしているのですが、今回の"a-z of slang"は特に完成度が高く、非常に楽しい動画に仕上がっていたので英語の勉強も兼ねて紹介します。

 


The A-Z of Slang - YouTube

 

 

AAbout Last Night

(成句) 昨晩の恥ずかしい状況を述べる際によく用いられる

 

B - Basic Bitch

(名詞)  ロゼを飲んでカップケーキを焼く、よくいる女の子のこと

 

C - Casual

(形容詞) まったくもってカジュアルでない状況に対して皮肉っぽく使う

 

D - Dev'd

(形容詞) 絶望的にガッカリした気持ちを取り次ぐ為の短縮形

 

E - Emoji

(名詞) 無数の文字を表現してくれる、メールでやり取りされる絵のこと

 

F - FOMO

(名詞) "Fear Of Missing Out"(取り残されてしまいそうな不安)のこと (アクロニム)

 

G - Girlfriend Voice

(名詞) 男性が大切な人と話すときのピッチやトーンの変化

 

H - H.A.M

(形容詞) "Hard As a Motherfucker"(超痛快なほど激しい)な感じで行くこと (アクロニム)

 

I - I can't even

(成句) 理解を超えて素晴らしい何かのこと

 

J - J'adore

(形容詞) フランス語。何かを好きだと思ったらいつでも使う

 

K - killin' it

(動詞)  今まで誰もあわせられなかったものを、高い水準であわせてみせること

 

 L - literally dying

(副詞) あなたを殺してしまうほどに素晴らしいものへの愛の表現

 

M - My Bae

(名詞) 「私の大切な人」という意味のことば

 

N - Normcore

(形容詞) 可能な限り普通に、もしくは退屈に装おうとすること

(Normal + Hardcore)

 

O - OBVS

(形容詞) "obviously"(見ての通り)の短縮形

 

P - Photo Bomb

(動詞) 予期せずに写りこんでしまって写真をぶち壊しにする人のこと

 

U - Uiche

(動詞) これ以上ないくらい格好良い人を指す際に使われる

 

R - Rager

(名刺) イっちゃってるパーティーのこと

 

S - Sorrynotsorry

(形容詞) 本当はそうは思えなくても、ソーシャルメディア上反省せざるを得ない状況

 

T - Turntup

(形容詞) ダメになってるか脳の一部機能を失うレベルで酔う

 

U - Untold

(形容詞) まったくもって信じられないことを形容する際に用いられる

 

V - V£RY RAR£

(形容詞) デザイナーものの洋服を見せびらかすこと(A$AP Rockyによって提唱された用語)

 

W - Whatevs

(間投詞) "whatever"の短縮形。「何も気にしないで」という意味

 

X - Xtra H.A.M

(形容詞) H.A.Mであること。ただし半端なく

 

Y - YAT

(形容詞) カワイイ女の子を指す言葉

 

Z - Zs

(名詞) 眠たくなるほどにクソつまらないもの

マムロ サムラゴウチ:静寂の歌曲 (原文ママ)

2001年のwebTIMEに載せられた佐村河内守氏についての文章の和訳を掲載します。

もとの記事はこちら。 

Mamuro Samuragouchi: Songs of Silence - TIME

 

以下訳。

マムロ サムラゴウチ:静寂の歌曲 (原文ママ)

ゲームミュージックの大家サムラゴッチ(原文ママ)は、自身の作品を聴けない

 

ビデオゲームのプロットが、宇宙船が死の光線を打つとか、小惑星を攻撃するとか、パックマンが光り輝くドットをぱくぱく食べるとか、そんなにもシンプルだった昔は、誰一人として、BGMに注意を払った者はいなかった。いくつかの機械的なピー音、鐘の音、単調な音の繰り返しがあればそれで十分だった。しかし今日のゲームはプレイヤーを、込み入って詳細に作られた幻想の世界で起こる複雑なドラマに引き込んでいく。ピーピーとか、リンリンなんて音はもう用無しなのだ。

去年ソニープレイステーション2用に発売されたカプコンの「鬼武者」の楽譜を聴いてみろ。37歳の作曲家、マモル サムラゴッチ(原文ママ)は、豊穣できめ細やかなシンフォニーを創り出した。それは、侍が大量の魔物たちから姫を助け出すなんていうありふれたプロットのゲームを、一つの叙情詩の様相を呈すものにまで引き上げた。これを録音するにあたって、サムラゴッチはプロデューサーに、日本の伝統的楽器である太鼓ドラムスやジャパニーズフルート(尺八?)の演奏者を含む200人のオーケストラを動員するように脅しをかけた。その結果が、まるで『アラビアのロレンス』のように、神妙かつ心に刻み込まれるような、忘れ難く威厳のある楽譜だ。二十世紀では、映画ってのは、かつてオペラがそうであったように、作曲家のパレットになった。サムラゴッチは語る。今はそれがビデオゲームなんですよ

ひょっとすると、『鬼武者』の楽譜の最もドラマティックな側面は、この作曲者自身が、殆ど聴力を持っていないということかもしれない。24歳の時、彼は重度の聴覚障害を持っていると診断された。そして今日では、彼の左耳は完全に聞こえなくなってしまい、聴力補助の助けを借りてかろうじて右耳から聞こえているだけである。彼のこの状況は彼の知名度をかなり上げた。その「知名度」は彼の作品を誠実な批評から突き放してしまうのではないかと彼は恐れていた。彼は「デジタル時代のベートーヴェン」というお話の不思議な風貌を理解していた。耳の聞こえない作曲家は仕事に最も不可欠な能力の欠落を克服したのだ。「人々にそれを気付かれることなく仕事ができていたので、私は隠し続けることが出来ていた」彼は言う。

広島に生まれたサムラゴッチは、5歳のとき、母にマリンバの為のコンポジションを作ったと伝えたとき、大きな喜びを感じた。サムラゴッチは彼自身の楽曲を10歳のときに作曲したことを覚えている。幼少期から彼はピアノを練習していたのにも係らず、彼は正式な訓練と作曲の技法のレクチャーはまったく受けてこなかった。彼は伝統主義者であって、モーツァルトやベートーベンといった西方の作曲家の研究者であり、溺愛者でもある。また、近代的な、無調の音楽に対しては否定的である。「私は調和が好きなんだ」彼は言う。「時々、私は違う時代に生まれてきちゃったんじゃないかって思う

赤褐色の髪をたなびかせ、黒色の洋服を偏愛するサムラゴッチ自身のファッションは、画一化が支配する日本においては、アウトサイダーである。日本という国は、聴覚障害といった身体障害を持った人々への理解が社会の主流として広がっている。しかしサムラゴッチは無名作曲家として、何年ももがき続けてきた。見るに耐えないと彼が判断するテレビドラマの為に作曲する代わりに、彼はパートでビデオ屋の店員や、街の清掃員となって自らを支援した。彼は最終的に、テレビフィルムの『コスモス』そしてゲームの『バイオハザード』のために作曲をするチャンスとともに、無名の壁を打ち破った。

当初は、サムラゴッチは聴力は保ってこそいたものの、慢性の頭痛と、終わることの無い耳鳴りに悩まされていた。そして、1999年には、『鬼武者』のための楽譜を作っている間に、彼は完全に聴力を失った。「私達はプレスのイベントの為のシンフォニーの演奏を六週間後に控えていた。まだ、私は曲を書く為に三つの手段を持っている」彼は言った。「私は頭の中で曲を創る。紙の上でなくてね。カプコンのプロデューサーに初期のバージョンを病院から送った。何故なら彼は会話を聴くことが出来なかったからだ。プロデューサーはキャラクターの音声の時間を付記した字幕を付け加え、彼に送り、そのお陰で、サムラゴッチは会話部分あたりの曲を創ることが出来たのだ。

今日、サムラゴッチの横浜の住居の暗い部屋で行われる仕事は数少ない。「私にとって最も悲しいことは私の作品を演奏するオーケストラが聴けるようになることではない」彼は続ける。「しかし私が思うに、私は自分の為に作曲しているのではなく、他人を幸せにする為に作曲しているのだ」そして彼は客用のMDプレーヤーのボリュームを上げた。涙が彼の目に満ちた。太鼓のリズミカルなビートを訊こうと、彼は大変に努力をした。衝突の雑音だけが彼の探知できるものである。

興味深いことに、サムラゴッチは聴覚の欠落が彼をより良い作曲家にしたと信じている。「気が散ることが無いし」彼は続けた「私は自分を聴ける。もしあなたが音の内なるセンスを信じているのならば、あなたはより真実に近い何かを創り出せる。これは心との対話のようなものだ。聴覚を失ったことは、神様からの贈り物だね。

 

 

TIMEは人の名前間違え過ぎだと思う。いい加減にしろ。

自殺体験アトラクション

思いつきで書きます。自殺へのアプローチとしてはかなり表面的です。

 

これだけ自殺したい人が居るんだったら、仮想的に自殺を経験できるアトラクションがあれば流行ると思う。

そのアトラクションによって自殺を決心する人もいれば、思いとどまる人もいる。死後の世界に胸を膨らます人もいれば、スカッとして生への希望を新たに見出す人もいる。そんなアトラクションがあればいいと思う。

 

アトラクション体験者(以下、プレーヤーと呼ぶ)は防音処理が施された個室につれていかれて、映像が流れるゴーグルみたいなのをはめさせられる。

最初に、「気分が悪くなったらすぐに赤いボタンを押してください」っていうアナウンス。そのボタンを押せばいつでも即座にアトラクション終了。この機能は絶対に必要。

 

その後、まずプレーヤーは自殺方法を選ぶ。「首吊り」「ガス」「飛び降り」「電車」などなど。それで、自殺決行五分前からスタート。

大まかな流れとしては、自殺までの過程を克明に描き出して、死の瞬間にブラックアウト。それでお終い。

 

「首吊り」なら縄を用意〜首をかけるまでの映像が流れて、最後に「足場を蹴飛ばしますか? 」というコマンドを用意する。 「ガス」なら戸締まり、目張りをしっかりやる映像を流して、その後「ガス栓を空けますか?」というコマンドを用意する。などなど。

「飛び降り」なら、その建物に入っていく所から、屋上に上るまでの映像を流して、靴をそろえて、その直前で「飛び降りますか?」というコマンド。「電車」なら駅にPASMOで入っていって、ちょっと構内をウロウロしてから、電車通過のアナウンスが響くと同時に「飛び込みますか?」というコマンド。

「首吊り」「ガス」なら1〜数分かけて徐々にブラックアウト。「飛び降り」「電車」ならその瞬間にブラックアウト。

それでおしまい。

 

でもあんまり美化し過ぎるのは良くないと思う。ブラックアウトの後に、遺書を読んで涙する遺族とか、そういう映像を流したりすると死が美化されるし、かといって、死んでしまった後にあいだみつをのポエムとかを流してしまうと今度は生が美化されてしまう。

生も死も美化しないべき。

 

多分、最後のコマンドを実行できる人って、少ないと思う。

結局多くのアトラクション体験者は「生きてて良かった」って思うんだろうから、プレーヤーはこのアトラクションが生を美化しているかのように誤解するんだけど、実はそうではなくて、プレーヤーが生に価値を認めているんだよな。

 

というか、僕が思いつくんだから、誰かが既に思いついているはず。

これをやるなら日本しか無いでしょうに。

orbi, JoypolisのSEGA様、この企画、どうですか?

 

書き終わって思ったけど、これ流行らないわ。

2014年3月27日の夢

(多分自宅の庭で)友人を殺してしまう夢を見た。その友人が誰だかも覚えていないし、どのように殺したかも覚えていないし、そもそも舞台となったその庭と併設された家は見覚えの無い場所だったのだけれど、家の仲に入ったときに母親が寛いでいたし、伯母とかも住んでいたから、多分僕の家なんだと思う。その家が所在しているのは僕の故郷であるHと言う所で、時間帯は夕方であった。季節は春か夏。

友人を殺してしまった後に、家に戻って、母親と金銭問題について口論した。大した大学に受かってないくせに、そんなに(交遊費として)金銭を要求するのは、身の程知らずというか、腹が立つと母親に言われたので、僕は過去に母親に言われた言葉を引用しつつ自分の頭の悪さを自虐した上で、でもこれでも友人との交遊の予定は既にいくつも断っているんだ(xxxxxxxxxxxxxxxxxxxxx)とチクチク言い続けるという性格の悪い行為をしていた。口論が終わった後、僕は、大学生になってからはお小遣いの制度を変えて欲しいという提案をした。母親はその提案を承認した後、僕の殺人について伯母と話し始めた。通報されるんだろうなと思った僕は、家の裏口から出て自転車に乗って、逃亡を図ったわけではなく、刑務所に入ってしまう前に、最後にこの街を見ておきたいと思って、自分にゆかりのある場所を巡ろうとした。僕が小学生の間お世話になった児童センターの前で自転車を止めた。今日はお休みの日なのか人気が無かった。夕日に赤く染まった児童センターを見て、ふと自分の小学生の時代を回想した。楽しかったかもしれない。楽しかったと思うと同時に、自分は取り返しのつかないことをしてしまったという感覚が頭をもたげた。そうなってしまうともう自分の楽しかった過去に浸っている余裕などは無く、刑務所の中での暮らし(いじめとか、あるのかなあとか)、刑務所を出た後の暮らし(どんな仕事が残っているのかなあとか)をずっと考えざるを得なくなった。そんな事を考えながら猛スピードで地元の中をぐるぐると回った。やっぱり自分は屑だったんだ。そう気付いた。

家に近付いた。家の前にパトカーが止まっていた。

目が覚めた。

とても腕がしびれていた。

家の所在が現在と異なるという点以外、夢だと気付くヒントが無かったと思う。

殺人はいけないと思った。

おしまい。