ブログに先んじて — 文字化・写真化の悩み

僕は卒業文集とかアルバムとかを見返すのが結構好きで、まあ一般名詞を名前に授かったものだから、自己同一性の確立に悩むところが色々あったのかもしれないけれど、その話は置いておいて、前々から様々な出来事や感銘を写真や文字にして記録するのがいいかもしれないと考えてはいた。

しかしそれを躊躇させる恐怖が僕にはあった。

その恐怖というのは、「自分の思い出が写真や文字に縛られてしまうのは怖い」というものだ。

この恐怖は厳密に言えば二つの恐怖の合体したもので、

「自分の生み出す写真や文字が自分の思い出を語るには余りにも力不足」

「力不足の写真や言葉に、記憶の心的な自然な咀嚼を妨害されるのでは」

特に、後者が怖い。

アルバムの写真なんかは自分がとっているわけではないから、何となく客観的な保証がある気がしてみていて楽しいのだけれど、自分が撮った写真は(見るとしたら)わりと流しで見ることが多い。

 

人生で遭遇する様々なイベントは、もちろん様々な構成要素によって出来上がるものだから、文字で表現しきることは凡人の僕には難しく、写真で表現しきることも同様に難しい。というか無理だ。

一度文字に起こしてしまえば、一度写真に切り取ってしまえば、そこからはみ出てしまった何かを取り戻すことは大変な苦労だ。

 

例えばきれいな女の人がいたとしてその人が鮮烈に記憶に残ったとする。 しかし、写真にその人を収めてしまえば、その瞬間の外見的特徴だけは正確に記録できるかもしれないけど、その人と出会ったそのときの空気感とか、雰囲気とか、胸の奥にわき起こった感情の動きとか、ある程度は表現できても、かなりの部分がばっさりと切り落とされてしまうわけだ。

文章でも一緒。うまくやれば、写真以上に自らの記憶に差し迫った記録を残すかもしれないけれど、同様に、切り落とされてしまう部分というのはある。

写真と文章を組み合わせるとなると、「写真」単体でもなく、「文章」単体でもない「写真+文章」という特殊な場合に於ける表現技法を利用していく必要が出てきて、余計大変になる。

そして僕は、そういうときに切り落とされてしまう部分にこそ、ひょっとすると重大な感動が潜んでいるかもしれないと考えてしまうのだ。このことも怖いし、何より、

そんな重大になり得る部分を欠いた「証拠」で思い出を無責任に補強されることが怖い。

 

でも、冷静に考えてみるならば、

 普通よりちょっとあほな自分の脳のストレージなんてたかが知れていて、思い出として記憶されたその瞬間からその思い出の情景はぼろぼろと抱え切れずに手から滑り落ちているんだろう。 そして追憶する頃にはなるほど確かに記憶の咀嚼という行為自体は自然に近い状態で出来るかもしれないが、殆ど記憶のない状態で記憶を反芻しようとするなんて意味も無く口をもぐもぐしているのと等しい。

 

さて、思い出は文字・写真として残すべきなのか、心にしまっておくべきなのか。

 

解決し難いので、とりあえずは思い出の中で比較的どうでもいいもの(≒どうでもいい近況報告)をここに書いてきます。